第21話 テンサイ

 桜は白い廊下を走りながら考える。

『へらへら笑って、なにも恨んだことありませんみたいな顔しちゃって! みんながみんなそうやって幸せに生きてきたわけないでしょ!』

 そうだ、みんながみんな、同じなわけがない。自分の子供時代が幸せだったかと聞かれたらたぶん首を横に振るだろうけれど、でも。
(確かにアタシ、母さまも、父さまも、あの人も恨んだことない……)
 誰も恨まずに生きてきたことだけを捉えれば、桜は幸せに、ある意味で能天気に生きてきたといえるのかもしれない。ミーナは違った。アニルを、警察を、国を恨まずには生きてこれなかった。それは苦しい生き方で、でも、彼女はそれを選ぶほかなかった。ミーナの目には、桜は綺麗事を抜かす子どもにしか見えなかっただろう。気に入らないと言われるのももっともだ。思慮が足りなかったと反省する。
 それでもやはり、彼女には気づいて欲しい。
 自棄っぱちにならないで欲しい。
 ミーナは休むべきなのだと思う。ほんの小さな子どもの頃から、十六年も戦い続けて、彼女は疲弊しきっている。けれど、彼女にはそんな傷ついた心を癒してくれる『薬』がある。その『薬』は、子どもの頃の桜にはなかったものだ。
 だから、桜たちはこの戦いを終わらせなければならない。ミーナが安心して休めるように。通りすがりの他人のくせに、ずいぶんお節介なことをしている自覚はある。でも、仕方がないじゃないか。苦しんでいるのを見つけてしまったのだから。
 いつもなにかを考え込んでいるようでいて、その実なにも考えていない、けれどなにかの縁で自分を救ってくれた誘拐犯のアイツと同じように、苦しんでいる人がいるのだから。
 見て見ぬ振りなどできないというものだ。
 入り組んだ廊下の角を曲がる。憎しみの根源はこの先だ。
「絶対に叩き起こして、喰い殺してやる……!」
 桜は、美しい獣のように駆け抜けた。

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 十兵衛は沈黙が降りる部屋の片隅で、時折彼の主人である魔王陛下の様子を確認しながら考える。

 ――なにも恨んだことありませんみたいな顔しちゃって
 
 桜の人生が幸せだったとは、十兵衛には思えない。でも、桜は誰のことも恨んでいないから、その点だけを捉えればミーナの怒りも頷けなくもなかった。
 十兵衛にとって、桜は特別で、少し変わった人だった。両親や世話人を恨んで当然のような劣悪な環境の下で、それでも誰も責めなかった。痛くて苦しくて寂しくて、それでも彼女は生来の優しさを失わなかった。それも、それが当然であるかのように。
 
 本当は、十兵衛も悩んだことがある。自分を捨てた母親に対して、自分はどんな感情を抱いて生きていけばいいのか。
 ある人は言った、なにも考えるな、無関心であれ、と。それは無理だった。生まれたときからずっと共に生きてきた、そんな母親を、どうしても懐かしく思ってしまう。
 ある人は言った、あの女を恨んでいいんだよ、と。それもなんだか違う気がした。母親は一生懸命だったのだ。貧しい中で一人、子どもを抱えて生きていく、その負担は計り知れない、そんなことは幼い十兵衛でもわかった。
 ある人は言った、彼女を追い詰めた社会こそ諸悪の根源だ、と。それもしっくりこなかった。社会は、貧しかった母親になんの救いも与えてはくれなかったけれど、それは母親の行動にはあまり関係なかったような気がする。母親は、死んだと思っていた我が子が帰ってきたとき、迷いなく酒瓶を投げつけて、『いるだけ迷惑』と言い放って、拒絶したのだから。母親が十兵衛を憎んだ理由は弱者を救ってくれない社会にあったのかもしれないけれど、現実に憎み、拒絶することを選択したのは母親自身だったのだから。
 そうなると、自分はどうすればいいのか。
 迷っているとき、桜が言った。

『好きなままでいいじゃん』

 十兵衛は驚いた。好きでいていいのか。恨まなくていいのか。懐かしく思っていいのか。まだ、母親を愛していていいのか。

『でも、お母さんはオレのこと嫌いなんだよ?』
『そんなの相手の都合でしょ。相手が嫌うなら自分も相手を嫌うの?』
『魔王様は、オレがお母さんを捨てたって、言ったんだよ?』
『理仁が勝手に言ってるだけよ。あんたは一緒に居たかったんでしょ』
『オレがいたから、お母さんは不幸になったんだよ?』
『だから自分から身を引いて、理仁についてきたんでしょ』
『変じゃない?』
『別に。変とか変じゃないとかって誰が決めるのよ』

『片思いでいいじゃん。好きだったんでしょ?』

 その言葉で、十兵衛はやっと納得した。
 もう、母親には会うこともないだろう。母親のことを思えば二度と会わないのが正解だ。
 それでも、この世界のどこかにいるはずの母親を、密やかに愛することは許されるのかもしれない。
 この気持ちを、恨みや憎しみで覆い隠したくはなかった。
 母が好きだから。幸せになってほしいから。想いは告げない、片思いでいい。
 なんとなく、それで十分な気がした。

 桜は笑って言ったのだ。
『アタシは母さまのこと、今でも好きよ。アタシを産んだことで母さまは不幸になった、だから、母さまが満足するならって、いつも叩かれてたけど、アタシには母さまを幸せにできなかった。それで身を引いただけで、ホントは離れたくなんてなかった。でもやっぱり、母さまには幸せになって欲しかったの。一度も愛されたことなかったけど、それでも大好きだったんだもん』

 そんな桜を、十兵衛の大好きな桜を、『へらへら笑って』『幸せに生きてきた』なんて、よくも言えたものだと、十兵衛は怒っていた。理仁はもっと怒っていたと思う。
 けれど、十兵衛は口にはしない。十兵衛だって結局、自分を拒絶して、殺そうとまでした母親を、恨んではいない。ミーナにしてみれば『幸せ者』の部類なのだ。なにを言っても前提が違っていて、ミーナには届かないような気がした。
 傷ついた誰かを救えるのは、同じ傷を負った他人なのだと思う。
 だから、このことはミーナに近い人が言った方がいい。
 スピーカーの向こうでカタカタとキーボードを叩きながら、黙り込んで何かを思案している仲間を思って、十兵衛はそっと目を伏せた。

   ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃

「ミーナ」
 端末を操作しながら、聖は沈黙を打ち破った。
 視界の端の画面に映るB102号室の映像の中で、黒髪の女性がスピーカーに視線を向けた。
(意識はあるんだな、OK……)聖は声が届いていることを確認して、努めて軽い口調でたずねた。
「アニルに妨害されて、今の俺にはDILを止められねぇ。アンタが頼りだ。そこの端末からどうにかDILを制御できねぇか?」
『……嫌……』先ほどと同じ答えを、虚ろな目で繰り返す。
『あたしには、もう、これしか……』
「……じゃあ、話を変えるか。ある天才と化物の話だ」
 突然話が変わったことに驚いたように、画面の向こうのミーナが少しだけ顔を上げた。
 聖は続ける。
「昔、ある天才がいた。ちなみに高身長で高学歴でニートっていうスペシャルステータスの持ち主。あと、超イケメンだ」
『……』
 呆れたような空気がカメラ越しにも伝わってくるが、気を取り直して話を進める。
「その天才は幼少期から周りと違っていた。解けないパズルはなかったし、テレビゲームは百戦百勝だったし、雪だるまを作らせたら完璧に計算され尽くした球体と黄金比に従って造形したその顔は観る人を涙させるものだったし、幼稚園のお遊戯では脚本・演出を担当し大量消費社会への批判に対するアンチテーゼを主張することで観客の大人たちはサロンに集まり止揚しようとしたそうだ」
 
 幼い頃は何をやっても、天才はいつだって人々に愛されていた。
 ところが天才は、学校に進学するにあたり幼稚園の『先生』に言われた。
『あなたは他の人とは変わった考え方をする。そしてその結論はとても正しい。けれど、その考え方はすごく理解されにくい。あなたが将来、一人ぼっちになってしまわないか、とても心配』
 そのときはよくわからなかった。だが、天才は学校に上がってからその意味を知ることになる。
 まず、だれも話が通じない。周りが真面目な顔してなにを言っているのかわからない。要するに、誰もかれもがバカに見えた。教師ですらもバカに見えた。学校のお勉強なんてお遊戯よりもつまらなかった。両親と学校側が協議して飛び級に飛び級を重ねて、それでもまだ周りはバカばかりで、誰とも話が通じなくて。このとき天才はようやく思い知った。
 幼稚園まではあの『先生』が、周りの園児たちに自分の言葉を通訳してくれていた。学校では一人の生徒にそこまで付き合えない。おまけに飛び級を繰り返し、周りは大人だらけで遊び相手もいない。それどころか進級を重ねてもまだ優秀な部類に入る生意気な子ども。当然のように、嫌われ者になった。
 『先生』の言葉が現実になった。『ひとりぼっち』になってしまった。
 両親は二人とも学歴のある人たちで、一代でそれなりの資産を築いて、現状に満足できない天才に相応の勉学の場を与えてくれた。しかし、天才は次第に、両親までもがバカに見えるようになった。天才は怖くなった。本当に一人ぼっちになってしまう。夜な夜な家から街に逃げるようになった。両親にはいつまでも頼りになる両親でいて欲しかった。幼い頃の記憶の、なにを訊ねても答えてくれる、優秀な両親を守りたかった。
 だが、街で出会ったのはロクデナシばかりだった。ロクデナシだが悪知恵だけははたらくバカばかりだった。資産家の息子だとわかると、非行の疑惑があると両親を脅して、つまらない額の口止料を受け取っていた。
 そのロクデナシの中でも一際バカな少年がいた。少年は自身のタバコの不始末で学校の倉庫を焼いたあと、犯人をあの天才だと学校に密告した。少年は天才の両親に話を持ちかけた。金さえ払えば自分が真犯人だと学校に伝えて、息子の代わりに自首すると。
 両親は息子に言った。
『お前が私たちを見下しているのは昔から知っていた。それでも我が子と思ってこれまでせびられるままに口止料を払ってきた。しかし罪を犯して、それを他人になすりつけようだなんてことは許されない。自首しなさい』
 両親は息子が真犯人だと疑ってもいなかった。
 天才は家を飛び出していた。彼は絶望していた。
 その後、真犯人である少年はあっけなく逮捕されたが、天才は街を出た。そして運良く移動興行集団を仮装した異能者集団に迎え入れられた。寝食には困らなくなったが、何年経っても両親や少年への恨みは晴れなかった。毎日彼らのことを思い出しては吐き気を催して、夜になっても頭の中では恨みつらみが渦巻いて眠れなかった。
 異能者集団に迎え入れられてから数年後、ある誘拐犯と被害者の娘が新たに一座に加入した。
 娘は成長しても身長ばっかり高くなってラインに色気がなくて胸はまさにまな板で目つきは鋭くて、そして、誰も恨んだことないみたいにヘラヘラ笑ってる、まさに天才の嫌いなタイプだった。
 誘拐犯と被害者少女。他人への関心が薄かった天才も、多少は気になった。
 天才は誘拐犯に声をかけた。『なんであんなガキを誘拐したんだ?』
 下世話な話、光源氏のようなロマンスを期待していた。あの、ロリコン貴公子が義母に似た少女を真夜中に誘拐して自分好みに育てようとするジャパニーズ古典。
 誘拐犯は言った。
『殺してくれと頼まれたからだ』
 天才は予想外の答えに茶々を入れるのも忘れていた。男は構わず続けた。
『彼女は鬼子として両親含め一族から厭われていた。彼女の母親は彼女に暴力を振るい、毒を盛って殺そうとした。しかしそれは叶わなかった。彼女には「害悪の告知」という異能があった。自分に降りかかる身体的・精神的害悪を察知する能力。彼女は暴力を振るわれることも知っていたし、毒を盛られても気づいていたし、周囲が自分を疎んでいることも知っていた。すべて筒抜けだったんだ。それでも彼女は孤独に戦い続けた。しかし……』そこまで言って男は口をつぐんだ。
 天才は『流石のアイツも耐えられなくなったんだな?』と訊ねたが、誘拐犯は『違う』と言う。
『自分がいることで母親が苦しむのなら、自分がいなくなればいい。彼女はそう言って、だから殺してくれとオレに頼んだ。オレは殺すことはしたくないから、ならば誘拐しようと提案し、彼女はそれを承諾した』
 天才は大抵のことは理解できる頭脳の持ち主だったが、少女の思考は理解できなかった。わからないことは徹底的に追究しなくては気が済まない性質だった。だから、少女を問い詰めることにした。
『なんで自分を虐げた相手のために引き下がったんだよ』
 彼女は首を傾げて、答えた。
『かあさまを愛してるから』
 愛とかそういうものが大嫌いだった天才は鼻で笑った。
『お前が愛しても、一族はお前を愛さなかったんだろ?』
 今になって思えば、年下の少女に相当性格悪いことを言ったものだ。
 しかし、彼女は意に介した様子もなく答えた。
『だれかにきらわれて、それで聖は生き方を変えるの? あたしはあたしが決めたように生きる。たとえかあさまがあたしをきらっていたとしても、あたしがかあさまを愛することをやめる理由にはならない』
 この瞬間、天才は少女を化物だと思った。
 だってそうだろう。何度も殺されかければどんなに強い意志があっても生き方を変えるだろう。愛し続けようだなんて考えないだろう。
 しかし少女は、自分を殺そうとした母親の幸せを願って、愛する母親の元から自ら去って、しかも、今でも愛していると言った。
 どういう精神構造をしているのか想像もできなかったし、今でも完全には理解できない。
 ただ、ひとつだけ、天才にも理解できることがあった。
 彼女はどんなに劣悪な環境にあっても、大切なものを見失わなかったのだ。愛されたこともないのに、愛することをやめなかった。自分が辛い思いばかりしてきたからって、いや、辛い思いばかりしてきたからこそ、大切な人に優しくあろうと決めて、どんなに挫折を味わってもその生き方を曲げなかった。そんな挫折は彼女の生き方を変える理由にすらなりはしなかった。
 それをもって天才が自身を省みるに、どうだろう。異能のおかげで幼少のころから優秀すぎて、理解されなくて、孤立した。それでも、理解しようとしてくれた人たちはいた。両親はいつだって、天才が満足できるような勉学の場を、学費も生活費も惜しむことなく与えてくれていた。『先生』は幼かった自分とほかの園児たちの架け橋になってくれて、一園児の行く末を案じてくれた。天才は、自分を愛してくれる人たちを、大切な人たちを、普通に愛してればよかった。自分のことを完璧に理解してくれなくても、普通に大切な人たちだった。それを、両親は子どもより優秀であるべきだと妙な形式にとらわれて、両親から逃げて、散々迷惑をかけた。息子が犯罪者だと知れれば、自分たちの築いた地位が失われるだろうに、それを捨てて息子に『自首しろ』と言ってくれた。相当な覚悟だったと思う。信じてもらえなかったのは仕方がないこと、ろくに話もせずに両親から逃げ回っていたのだから自業自得だ。

「――ま、『一番バカだったのは天才でした』ってオチだ」
 ここまでずっとしゃべり続けて、若干口が乾いていたが、DILとアニルの相手をしながら水分を口に含んでいる暇はない。そんなことより、ミーナに伝わったかどうかの方が重要だった。
 画面の向こうの彼女は変わらない。ぼうっとした表情で、語り終わったスピーカーの方を見ている。なにも言わないものだから、本当に聞いていたのかすら疑わしかった。
 しかし、それは杞憂だった。

『あたしにとって、たいせつなもの……』

 ぽつりと呟いたのを、聖は確かに聞いた。
 ミーナはアンジュだった人形に目を向ける。人形の乱れた髪の毛から、そっと銀色の髪飾りを取り外した。

『……アンジュ……』

 ふうと、深呼吸した彼女の目に光が戻るのを、聖は画面越しに見たような気がした。

   ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃ ❃

 十兵衛は、突然立ち上がったミーナに驚いた。
 ミーナは端末の前に向かうと、迷うことなくキーボードを叩いた。
 その目には確固たる意志が宿っていた。今は、すべてを憎んで自暴自棄になっていた復讐者はいない。彼女はやるべきことを決めていた。
 アニルが放ったDILを停止させる。
 停止コードに設定していたのは、彼女が大好きだった女の子の情報。

 

011100(L)010110(a)110110(d)111001(y)010011(、)
101111(w)100100(h)111100(o)
011100(L)110000(i)101011(v)110100(e)111000(s)
110000(I)111110(n)
101000(T)100100(h)110100(e)
100100(H)110100(e)010110(a)101100(r)101000(t)
001011(!)
1001(6)1100(9)1111(4)1001(6)1111(4)0110(2)1100(9)1011(7)

 

 ――心に住む者、アンジュ――

「あたしを明るい方へ引っ張っていってくれるのは、やっぱりいつも、あんたなのよね」
 十兵衛は、ミーナはこんなに優しい声をするのかと、まるで別人を見ているような気がした。
 ミーナがEnterキーを押下する。
 その瞬間、攻撃態勢に入っていたDILは、彼らの親の命令に従って動きを停止した。

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